テキスタイル教育を考える

田 中 秀 穂

武蔵野美術大学
工芸工業デザイン学科 テキスタイル研究室 教授
  


      
  

普遍的アートから学ぶ

   触覚文化は日本の誇り

  一枚の布が歴史を語る
  

 ファッションを、辞典では「はやり」「流行」「上流階級の慣習」、あるいは「・・・・・・流に(風に)」を意味する副詞を作る連結形(sit Japanese fashion) などと解説している。衣服と理解して、ファッションビジネスにおける関連領域を調べてみると、余りにも多岐にわたることに驚く。
 テキスタイル教育を専門とする私だが、この流行と向かい合うのは苦痛である。テキスタイルの“伴侶”として、衣服は最も身近に理解されるが、テキスタイルの教育現場では、普遍的なアートを背景にした制作と提案に力を入れている。
 その結果、染織表現を制作に生かすと同時に、デザインとアートのバランスを考えるために、インダストリアルデザインやインテリアデザインを視野に入れたカリキュラムが必要と考える。
 一般的な解釈として、ファッションは衣服であるが、前述のように、動いていく現象、うつろい、心の変化までもファッションと理解して間違いなさそうだ。衣服だけにとらわれない視点で考えてみると、物事の関係性を誕生させるファッションは、コラボレーションと一脈通じることにもなる。関係の思想「相生と相克」そのものではないか。

  

ルース・カーンが設計した米国のUnion Charch (Rochester NY)。
タペストリーは、テキスタイルデザイナーのジャック・ラーセンが制作
  
スイス・チューリッヒのカフェ。
街と店舗デザインの統一感を重視している

  

   

環 境:卜―タルデザイン

 乗降客数日本一の新宿駅。その混雑と無秩序な環境は現代の日本の象徴であり、ファッションそのものだ。個性的とか、「面白いからいいじゃない」で許される環境の悪さに眉をひそめる人々も多いと思う。自由な社会環境下では、秩序が作り出す美は理解できないのだろうか。
 駅の騒音に毎日身を置いているわけではないが、とにかく騒音として気になるものに電車の発車音がある。金属音のベルに代わり音楽的旋律音を耳にするようになった。JR東日本によると、国鉄からJRに変わった1989年、イメージアップのためにデザインを変えたとの答えが返ってきた。
 日本もようやく環境を考えた駅作りになったと喜んだのだが、いつのまにか駅という駅が同じような演出になり、しかもその音はどこかで聞いたような旋律ばかりだ。私だけが感じるのかもしれないが、尻切れトンボのような旋律と音の長さは中途半端でイライラする。JRの「デザイン」という言葉が空回りをしているように聞こえる。
 音の決定は最終的には各駅の駅長が決めているらしいが、JR上野駅はべルも併用している。命令は出したものの、総合的な環境づくりまで考えていない。これが現代日本のデザインの姿なのだ。環境の整備、統一ある街づくり、トータルデザインを真剣に考えてほしい。
 以前、光のデザイナーが、ディスコの空間照明に関して、客数の増減と連動した光の演出による環境づくりで私たちを魅了した。音のデザインと環境にも同じことが言える。唐突に聞こえるだろうが、この国を方向づける政治、行政領域での、美とデザイン教育が特に重要と考えるこの頃である。
 服装でも、いろいろな姿を街で目にする。お世辞にも美しいとはいえない不要なファッションも多い。ファッションは「自分のためで、人のためではない」とヒステリックに叫ぶ声が聞こえてきそうだが・・・・。
 衣服について調べてみると、「着物」「衣服 「被服」「服装」「服飾」などさまざまに呼ばれる(『芸術工学概論』吉武泰水編・九州大学出版局)。芸術工学では、アバレル・デザインについて次のように解説している。
「これらを総括する用語に対して、被服と定義しているが、被服の被は『おおう』の意味なので、元来は着装すること、あるいは着装した状態を示すものであったが、いつしか着装する以前を指す『衣服』と、同意的に用いられるようになってしまった」
 また、被服という公用語が定着しても一般生活に浸透しなかった理由の一つに、軍隊での使用方法で「規格による製造および配付」と記された点が挙げられる。用語と意味の興味深い変遷である。服だけに焦点を絞って語れないのが現代のファッションである。
 本来、ファッションは美しく快適なもので、本人はもちろん、人々をも魅了することに意味があると思う。バランス感覚で創造されてきた日本の美のファッションはどこに消えてしまったのだろうか。

   

触 覚:テキスタイルの本質

 テキスタイルの本質は触覚である。触ることからテキスタイルを考えねばならない。現代のツルツル文化は、建築からコンピューターや効率を追求する工業製品にまで至っている。
 ガラスの建物やデスクトップなどがそのよい例で、ツルツルスペスベが身の回りに多い。自然界にはそのような触覚感は存在しない。「 Texture(テクスチュア)」もよく使われる言葉だが、この意味はラテン語の「to weave(トゥ・ウェーブ)」である。
 糸と織りの交差が作り出すさまざまな表情・テクスチユアを大切にしたい。「手」を通して作り上げてきた触覚文化は日本のかけがえのない誇りである。コンビニ、インスタント、“チン”など、アメリカ的生活は便利で素早く対応する生活を提供したが表面的であり、大切なものをはぎ取ってしまった感がある。
 食生活の大幅な変化とともに使い捨てという大量消費へ進み、先人たちの繊細な感性と卓越した技術で作られてきた触覚の布が姿を消さざるをえなくなっている。五感の中の基本である「触って考える」を、テキスタイルはもちろん、生活、環境、工業すべてにおいて再考すべき大事な時代を迎えている。

  

風 土:文化は素材で形成

 歴史学者のトインビー氏は、アフリカにおける衣服と肉体について、こう分析している。
「ここではキリスト教とイスラム教が宣教のしのぎを削っている。どちらも、人々に裸を隠す習慣を身に付けさせようと多大なエネルギーを費やしている。しかし、ここの風土では裸でいることこそ最も合理的な服装なのだ。ディンカ族の美しい裸をみていると、衣服などというものは、楽園追放以前の人間の面白半分で作ったものだということが分かる」(NHK「ファッション・ドリーム」第1話/1991年)
 衣服を成立させる1枚のテキスタイルは、雄弁に自然との調和、共生を生み出し、素材、形態で歴史を語り、文化は素材によって形成されたとも言えるだろう。最古の麻布は紀元前4200年頃エジプトで発見され、中国では絹、インドでは木綿、南米のプレインカではラクダ科動物の毛が織られた。日本を考えると南方からの稲の栽培技術説が有力視されている。紡織がどの程度の重要性を持ち、経済や生活に関わっていたかだが、植物繊維を中心に縄文時代の終わり頃から弥生前期に展開されたと考えられる。
 衣服は、風土に支えられて民族性豊かに発展してきた。しかし、流通の変化と拡大は、世界市場の境界線を越えて、グローバルな経済を活性化させ、その結果、地域性、風土性、民族性さえ混沌とさせる製品が出回ることになった。
 「ファッションって何?」「服って何?」の問いに、「自己表現」と返ってくることが多い。確かに間違いではないが、「自己規制」と対で考えることを忘れているようだ。
 素材革命は、合成繊維の色彩の豊富さ、重量、強度の面からテキスタイルのパフォーマンス性を拡大させ、大胆で刺激的な表現を可能にした。身体表現として、あるいは空間を包み構築して内部、外部の接点となる稜線や膨らみ、テンションとコンプレションの造形が衣服にも応用されて、個性的な形態表現で楽しませてくれる。一方で、衣服は生命を守るライフラインとして、素材、耐久性の研究が科学的側面から行われ、第2、第3の皮膚を作り出している。機能性を重視するとともに個人の満足感を充足させるのもファッションである。

 

  

専門性から統合へ

 今こそ家政学の時代

  

パターン:生活環境で差異

 テキスタイルを主体に語る場合は製作技術、素材についてのことが多い。デザインの領域について、デザイン評論家の川添登氏は、人間と自然を媒介する道具的装備、人間と社会を媒介する言語に代表される精神的装備、社会と自然を媒介する環壌的装備に分類し、デザイン分野を道具的装備にプロダクト・デザイン、精神的装備にコミュニケーション・デザイン、環境的装備にエンパイラメント・デザインを対応させ、分類している(『芸術工学概論』)。
 「1枚の黄色いハンカチーフ」を領域に対応させることでテキスタイルの表現領域の深さを知ることになる。映画「幸せの黄色いハンカチ」〔1977年、山田洋次監督/松竹〕をご記憶の方も多いと思うが、この1枚の黄色いハンカチは、プロダクトとして生産されて、その色彩が情報とコミュニケーションを、そして巨大な造形が非日常の空間を作った。青空に旗めくハンカチの群れは、動くアートのように私たちの五感を刺激しながらメタファーとシンボルを演出するトータルデザインである。このような場面を、祭りやオリンピックなど「はれ・陽」の部分で見ることができる。
 デザインは経済を背景に成立するが、ファッションビジネスはその最たるものの一つだ。パターン(文様)もテキスタイルには欠かせない魅力であり、時代、民族は独特なデザインを色彩とともに作り上げてきた。
 その根底には人類の空白回避としての意識がある。パターンの大きさや色彩の強弱は、生活環境で大いに異なってくる。牧歌的な生活では刺激のある強さが求められるが、都会における住居空間は、休息を主とするような色彩、パターンが要求される。
 パターンと色彩のコラボレーションは、テキスタイルに活気と活力を与え、「まとわりつく布・天空に泳ぐ布・支持体に沿う布」などを誕生させる。

  

向き合い方:相生・相克が絡む

 「木綿衣服が主流であった昔の冬は寒かった」と感じるのは、年を取ったためだろうか。気象の変化もあるが、すき間風の吹き込む家屋と物資の少なさとが、より寒さを感じさせた。暖かい動物繊維の衣服として、正月用に用意された毛糸のセーターが思い出される。ほどいて蒸され、またセーターに編まれていた。そんな子供時代、かわいそうに、飼っていたウサギの毛皮がはがされ、私のコートの襟に着けられた。弟の三角マントは、伺匹のウサギが使われていたのだろうか。豪華だが少しかわいそうな防寒衣服だった。
 個性があるようでないのが現代だ。衣服に限ったことではないが、服はその人を語る“言語”の役割を果たす重要な分身である。インテリアのテキスタイルにも同じことが言える。カーテンの色彩やパターン、装飾の方法などでその家の個性をメッセージしている。 物質が豊かで不自由のない生活だが、何もかもあてがわれているような、没個性化政策に慣らされているようでもある。触覚文化と同時に、同化する文化を育んできた国民性がそうさせているのか定かではない。「みんなで渡ればこわくない」の感覚なのか。
 日本は自然との同化を、四季折々のなかで紡ぎながら繊細な糸を作り、布に美を託して衣服に繁栄させてきた。現代のコンクリートジャングルで潤いのある生き方とはどんな生活なのだろうか。テキスタイルは、衣服ほどの強いインパクトを社会へ発信しないが、住の「外に固く、内に柔らかく」の考え方はすべてに通じるのではないだろうか。 「家政学と良妻賢母.」、この言葉を使うと大方の人は眉をひそめるが、そんなに時代錯誤の言葉だろうか。「らしい」「らしくせよ」 という言葉もひと昔前まで使われていたが、男女それぞれが自分に合った立場で懸命に素直に生きることを教えている。

 家政学は、総合的な視野と思考で科学的、芸術的に生活を研究実践するすばらしい領域である。従来のように女性だけが学ぶのではなく、男女ともに学ぶ価値のある時代のようだ。
 母親は、家庭全般を多面的に作り上げコントロールするクリエーター、デザイナー、アーティスト、教育者などの領域を多く持つ表現者であった。なんと現代の花形領域の肩書きを持つ人間だろう。物資の貧しさが知識をむさぼり、和恵を養い、布や糸を大切にする暮らし方があった。20世紀は領域の専門性を深めてきたが、21世紀は新たな統合からの領域の可能性を探る持代だろう。
 ファッションとテキスタイルの向き合い方は、考えれば考えるほど答えが見つからない。生き物のようなファッションに翻弄され、あらためて相生・相克が絡み生み出す、現代のコラボレーションと家政学を考えることになった。

  

  

 「 空は衣装 大地は枕 より少しのもので成長せよ 」

  ゲイリー・スナイダー 詩人

  『 何もいらない ヌシュマイラン 』
  (出水沢藍子著/高城書房出版)

    



「繊研新聞」2005年2月15日(火曜日)版より

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